茜色に染まった森を舐めるように紅蓮の炎が這いまわる。一度ついた炎は簡単には消えず、瞬く間に森全体に広がろうとしていた。ルヴレインから戻ってきたリオーフェの手には日記がしっかりと握られている。絵は置いてきた。あの絵を持って来る気はどうしても起きなかったのだ。それはシャルウェイトもわかっていたのか静かに微笑んで納得してくれた。いいや、それよりも今はどうしても確認しなければならないことがあった。
 クロエルと走りながら森の中を通り抜けていく。シャルウェイトは言っていた。森は紅蓮の炎に包まれるだろう。と……それも巨大な悪意と共に。つまり、誰かが意図的に火事を起こしたという事だ。リオーフェの住んでいる一帯は常に冬一歩手前の場所だ。雪が降ったりするが、逆に降らない時は乾燥している。つまり、乾燥地帯は迚も燃えやすいという事だ。この前降った後だから雪は降らないだろう。
 リオーフェは辺りの温度が徐々に上がっていくのを感じながら走り続ける。遠くの方で炎が燃え上がっているのがわかった。クロエルは危ないと言うがどうしてもリオーフェは取りに行かなければならないものがあった。乾いた大地を革のブーツが蹴り上げ、また一歩と足を進める。
 普段こんなに運動したことが無いと言うくらいリオーフェは走った。走り続けた。炎が近くまでせまってきているのが分かったが、それでも走り続けた。あそこには、あの家にはサーシャが残した日記があるのだ。白き魔女となってからは名前さえ呼ばれることが無くなってしまったかわいそうな老婆。だが、いいや……だからこそ自分だけでも覚えていなければならないのだ。彼女の存在を。
 家まで辿り着くと急いで棚の中に大切にしまってあった日記を取り出す。泣きだしそうな感情に支配されるが、そんな事を言っている場合ではないんで直ぐに家を出る。目の前まで炎は迫ってきていた。紅蓮の炎はあっと言う間に森全体に燃え上がったようだ。迫ってくる炎に踵を返し走りだす。クロエルが剣を片手に降りかかる炎をなぎ払ったりするが、それでも炎は迫ってくる。
 炎がリオーフェとクロエルに牙を向く。咄嗟にクロエルがリオーフェを庇い、抱き締める。思わずリオーフェも瞳を閉じた。その瞬間、大地に瞬く間に炎が広がった。だが、リオーフェは熱くない感覚にゆっくりと瞳を開く。頬に、何故か風を感じた。
 驚いたように瞳を見開くと何故か自分は空を飛んでいた。クロエルも信じられ無いといわんばかりに自分がいる状況に目を白黒させている。だが、リオーフェはこの感覚を知っていた。
「もしかして……ドラゴン?」
「その通りだ」
 頭の上でゴォォと凄まじい鼻息が聞こえた。間違いない、ドラゴンだ。しかも普通に触ると火傷するのを懸念してか洋服に爪を引っ掛けるような形でリオーフェ達は浮いていた。一歩間違えれば火の海にまっ逆さまだ。しかしドラゴンは翼を動かしながら低く唸るように声を漏らした。
「あの愚図王がこの火事を起こしたようだな」
「ぐ、愚図王?」
 しかしリオーフェの声に答えることは無かった。怒りに染まった瞳をしたまま忌々しげに吐き出した。
「儂ではこの炎を消す事は出来ない。初代白き魔女がいれば奇跡を起こせたかもしれんが……」
「初代白き魔女なら奇跡を起こせた?」
「あの魔女は優秀だった。天候すら自由に操れるほどの力を秘めていたからな」
 そんなの、人間に出来るのだろうか。と思うがシャルウェイトの話を聞いた後ではそれさえも出来るのではないかと思った。しかし、今回の事件を起こしたのはその初代白き魔女本人ではないのか?
 眼窩の下、燃え盛る炎を目の前にしてリオーフェは何もする事が出来なかった。やはり無力なのだと思い知らされる。両手で耳を防いでもまだ森の中に取り残された人々の断末魔や悲鳴が聞こえてくるような気がした。

 綺麗な歌声がふいに聞こえてきた。透き通るほど綺麗な歌声。大きな声ではないのに何故か空にいるリオーフェにも聞こえた。耳を澄ませばよく聞こえてくる。美しく、艶がある声は大気を揺るがせた。ふいにドラゴンは唸り声を上げ動き出す。炎に包まれた森を後にする移動するドラゴンにリオーフェは叫んだ。
「何処に行くのですか!」
「とりあえず着地するぞ。初代白き魔女が嵐を起こす前の詩だ。あれは」
「え?」
 理解できずに眉を顰めた瞬間、空を分厚い灰色の雲で覆いつくされるのが分かった。ぽつり、ぽつりと頬に当たる雨。だが、次の瞬間凄まじい雷雨が降りだした。まるで全ての炎を消し去る為に降り続ける雨。こんなに激しい雨を始めてリオーフェは見た。あれほど燃え上がっていた炎は直ぐに沈下し、静けさを取り戻す。しかし雨は止まない。
 まるで人々の負の感情を吸収したように膨張した嵐は更に激しく降り続けた。一向に降り止まない雨を目の前にしてリオーフェは呆然とする。服が雨でびちょぬれになるが仕方が無かった。
「どうして、もう炎は消えたのに……」
 何故止まないのだろうと呟くリオーフェにドラゴンは静かに言った。
「言っただろう。愚図王が炎をこの森に放ったと。つまり、此処に居る愚図王を殺すまでロリッシェはこの雨を止ますつもりは無いという事だ」
 酷く冷めた声が響いた。

降り注ぐ嘆きの雨


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