甘い、花の香りがする。何なのだろう、この香りは……ゆっくりと瞼を開けるといつの間にか先ほどロリッシェが寝ていた椅子の上に自分がいた。驚いたように体を起き上がらせればそこには先ほど優しい笑みを浮かべていた男性の姿も存在する。シャルウェイト・ルヴレイン。初代国王にしてこの小さな国を作り上げた基礎の人。そして、何故かロリッシェと親しげに話していた人。何故、過去の人が目の前に居るのかと言われれば分からない。でも、彼にとっては普通なのか然程驚く事もなくリオーフェを見つめ、ゆったりと笑った。
「済まないね、無理やり気を失わせてしまって。私はあまり長いこと外にはいられないからこうやって私がいられる空間まで来てもらったよ」
 意味が分からない会話をされても困ると眉を顰めるリオーフェ。甘い香りが漂う優しい思い出の庭園にはロリッシェの姿は消えていた。何故彼女は居ないのだろう、と思えばリオーフェの考えを汲み取ったシャルウェイトが莞爾と笑った。
「先ほど見た彼女は僕の記憶の中に存在するロリッシェさ。だから此処にはロリッシェは居ない」
「……ロリッシェとは知り合い、なんですよね」
 リオーフェの困惑気味の言葉に楽しげに肯定する。
「そうだとも。僕と彼女は血の繋がった正真正銘の姉弟だよ」
「え?」
 甘いマスクを浮かべ、さらりとありえない事を告げる目の前の男性にリオーフェは動きを止めた。瞳を大きく見開く。一体、どう言うことなのだろうか。説明を求めようと椅子から立とうとするリオーフェを軽く椅子に押し戻すと優しくその唇に指を宛がった。
 温かい、人の温もりが伝わってくる。死んだはずの人間なのにそれほど怖くはなかった。多分彼が信じられないほど優しい微笑みを浮かべているからだろう。
「ロリッシェは人前に出るのを嫌ったから名前とか絵画とかそういう類の記述があまり残ってないのは仕方がないけど、たった一つだけ彼女に関する書物が残っている。彼女は初代白き魔女になると同時にルヴレインの名を捨ててしまったからね。本来は残っていないはずの物だ。いいや、残っていてはいけない物なのだ。勿論ロリッシェも知らない。だから君に託そうと思ったんだ。君は、聡い子だからね」
 優しく頭を撫でる手が何処か寂しそうだった。
「多分ロリッシェは嫌がると思うけど、君が持っているといい。彼女は時に思い出を大事にしないから君のような子に少しは覚えてもらえれば良いと思うんだ」
「はぁ……」
「ごめんね。意味不明な話ばかりしてしまって。ついでと言ってはなんだけど、君の質問に一つだけ答えてあげるよ。何でもいいから言ってみなさい。僕の答えられる範囲で答えてあげるよ」
 本当に変な人だと思う。さすがロリッシェと血が繋がっていると言うことだけのことはある。何だろう、不思議なくらい見入らせられているのが分かった。
 だが、いきなり何でも聞いてあげるよと言われても答えられる訳でもなくて――困惑したようにリオーフェは考え出した。何でも聞いてもいいと言われても困る。迚も困る。しかもたった一つしか聞けないと言うところが困る所なのだ。だって、もしロリッシェとシャルウェイとが姉弟なのだとしたら彼女は一体何者なのだという話になってしまう。そもそも、数百年も前の人間が生きていられるとは思わない。それに彼女は貴族の当主ではないのか?
 困惑した後、自分が何故ここに来たのかを思いだした。そうだ。自分はこの城の――自分との過去の決別をしに来たというのにどうしてこの城はこんなに綺麗に、整っているのだ?
 まるで戦争の面影など残っていないかのように……
 一体この城を誰が作り直したのか知りたかった。まるで上辺だけ取り繕っているこの世界が、姿が迚も気に食わなかったのだ。どうして、全て何事もなかったかのように城を元通りに戻す事が出来るのだ?ここで、沢山の人の命が奪われて逝ったと言うのに……こんな、形だけ綺麗にされても嬉しくなかった。
 だって、もう、この国は滅んでしまったと言うのに――
 長い睫毛が揺れ、アメジストの瞳が歪んだ。ぽたりと、生暖かい物が頬を伝う。まるで、皆から攻められている様な気分に陥る。皆死んで自分だけ生き残っているのだ。こんなに苦しいのも、悲しいのも自分ひとりが今も図々しく生き残っているからに違いない。
 自分ひとりだけが皆の元に逝くことが出来なかったのだから。
 耐える様に心の中にせき止めていた感情がゆっくりと溢れだし、涙となって頬を伝う。あの時は大声を張り上げて泣く事しか出来なかった。しかし、今は誰にも聞かれないように声を抑えて泣くことしか出来ない。小さな肩を振るわせ、耐えるように泣き崩れるリオーフェにシャルウェイトはそっと寂しそうに瞳を伏せその体を抱き締めた。
「君の事を大切に思っている人は沢山いるのだからそんな風に泣かなくてもいいんだ。今は辛くてもきっとその傷が癒せる時もきっと来るから。だから……泣かないでおくれ"――――――"……」
「っ――」
 ずっと、誰にもそう呼んでもらえる事がなかった名前があった。
 国を無くしてから。祖国を無くしてから、私と言う存在は世界から抹消されて、いらない存在になってしまったから。生きていてはいけない存在になってしまったから。だから、自分では忘れたはずの、名前を呼ばれるたびに私は動揺してしまう。
 捨てたはずなのに。いらない筈なのに。世界から見捨てられ、いらない存在になってしまったのに。
 どうして、その名を口にする者がまだ存在するのだろうか?
 その名前を呼ばれるたびに頭の中を過ぎるのは黒髪の、凍りついたような目をした人の姿。敵なのに、私の祖国を滅ぼした国の王子なのに、その姿が、名前を呼ばれるたびに思いだされる。一番嫌いなはずの人間の姿が、本当の名前を呼ばれる度に過ぎる。何と言う矛盾。自分の感情が自分で理解出来ない。
 どうしたら良いのかも分からない。嗚呼、誰か助けて。しがみ付いた腕が迚も温かくて、優しくて……今は亡き両親を思いださせた。


貴方の優しさが心に染み渡る


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