「大丈夫、リオーフェ」
不安げな声が響く。だが、其れ所では無かった。火照った身体が熱く、顔を初めとして焼けるようだ。恐怖が身体を蹂躙し歪む。額に手をあてがったエカテリーナ様が小さく悲鳴を上げたのが分かった。ぼうっとして意識がとろけていくようだ。その瞳は一瞬にして重たく閉ざされる。瞼が重くて開けない。意識が遠のく。最後までエカテリーナ様の焦った声が響いた。
誰かに名前を呼ばれたような気がしてリオーフェは振り返った。無機質なアメジストの瞳が不思議な光景を目にする。遙遠くで微笑んでいる人物を見つけた。だがそれは既に死んだ人ばかり。昔にあった戦争でみんな死んでしまった。残ったのは自分だけ。その人々もあっという間に消えてしまい想像もできないほど静かな空間でリオーフェは一人だった。独りぼっちだった。この世界が夢だとしてもどうやれば抜け出せるのか全く分からない。リオーフェは困ったようにため息をついた。途中までの意識は残っていた。そう、確かに自分はあの男と話していたはずだ。そして、話をして――
「そっか、私……」
我を失ってしまったのだ。彼女が必死で堪えてきた物を一瞬にしてあの男は壊したのだ。支えていた枷が吹き飛び我を忘れて叫んだ。酷い、事を言ったのかもしれない。その辺は酷く曖昧で覚えていなかった。其れがせめてもの救いかもしれない。
少し、歩いてみたくなった。ただ平らな平原が続く場所だからこそ歩いてみたくなった。何もない。永遠に変わることのない場所。それは魔女の森の中に居るようだった。一歩。また一歩。と足を進めていく。世界は何処までも綺麗で美しい。頬を撫でる風が気持ちよかった。でも、自分はどうやったら此処から抜け出せるのか分からない。途方に暮れていた時だった。其れは静かに響いた。
「72代目白き魔女よ」
「……?」
其れは静かに波紋を広げる声だった。静かな空間に声を広げるには十分すぎるほど静かでいて綺麗な声音。でも、こんな声をリオーフェは聞いたことがなかった。辺りを見渡すと平原に大きな立派な椅子が一つ置いてあった。その上に凭れるように一人の女性が座っている。自分と同じ白い髪の毛をふんわりと巻いた髪型に青と緑のオッドアイ。不思議な外見を備えた女性は静かに、静かに唱えた。
「初めてだな、この様にして会うのは」
「……貴女は……?」
「なに、ただの気まぐれな老婆だよ」
思わずその言葉にリオーフェは眉を寄せる。目の前の女性は老婆と言うにはあまりにも若すぎた。まだ二十代前半にしか見えない。声も透き通るほど威厳があって、凄く偉い人なのだと思う。そんなリオーフェの考えを呼んだのか女性は不敵な笑みを浮かべると頬に手をあてがう。手に付いているたくさんのブレスレッドがジャラリと音を立てた。
「72代目白き魔女は随分と謙虚な心持ちのようだ。そして寛大でもある」
「……?」
「そう怪訝そうな顔をするな。私とてこの様な場所に来る予定ではなかったのだ」
おかしな人は草原にポツンと置かれた黄金で出来た椅子に座り、その上で胡座をかきながら呟いた。その姿は何処からどう見ても高い地位の偉い人にしか見えない。だが、変人なんて言ったら目の前の女性は憤慨するだろうか。それとも気分を害するのだろうか。理解できないリオーフェは目の前の女性を見つめることしかできない。ふいにオッドアイの瞳が楽しげに細められた。其処に広がるのは優しい笑み。
「人を救済したときの気持ちはどうだった?気持ちよかったか?神になれた感覚になったか?」
「いいえ」
「だろうな。自分達を魔女などと呼び軽蔑する者達を助けても何の感情も湧かなかったか」
「むしろ、悲しかったです」
「……何故?」
「助けられる術を持っていたはずなのに、私は……助けられなかった」
「我々は万能ではない。それはお前とて分かっているはずだ。私たち魔女と呼ばれる存在だって同じ人間なのだと言うことぐらい」
「貴女は……貴女も……魔女、なんですか?」
「昔の話だ」
「……じゃあ、今は何なのですか?」
リオーフェの問いかけにも害することが無く女性は暫し考えた素振りを見せた後、にんまり笑う。
「私は、私だ。まあ、今は神のような存在かもしれないが――嗚呼、嘘だ。其処までは行き過ぎか」
クスクスと笑う姿は迚も絵になるがその格好はどうなのだろうと思う。椅子で胡座をかいているせいでその姿が些か威厳を無くしているように見える。だが女性は気にした様子もなく謳う。
「世界は何時だって白か黒か二つに別れている。王国が白で私たち異端者が黒だと街の者は口々に言うだろう」
こうして我々は困った国民を助けているというのに。慈悲深さは彼等に通用しないらしい。困ったものだと肩を竦める女性。ふんわりと巻いた髪の毛が静かに揺れた。
「時に白き魔女よ。お前はこの世界をどう思う?」
「どう思うとは……どう言うことですか?」
「質問を質問で返すな。この世界の有り様をどう思うか聞いているだけだ」
お前は変わることを恐れている。指を指されにんまりと笑われれば否定できない自分が居た。彼女は正論だ。其れは同時にリオーフェに恐怖を齎す。
「貴女は本当に何者なのですか?」
咄嗟に叫ぶようにして問いかけた質問に女性は満更でもない笑みを浮かべた。
「ロリッシェ・フィルミ・グローカスだ」
「……その名は――」
知らぬはずがない名前にリオーフェは目を見開く。ロリッシェと名乗った女性は悠然と微笑む。
「ベッドの下にある地下室への扉を開けろ。其処に更なる知識の倉庫と生々しい歴史が綴られた日記がある。見るか見ないかはお前次第だリオーフェ」
その瞬間女性は掻き消え、リオーフェの視界も暗転する。あわよくば目が覚めることを祈らん。
女王はかくも語る。
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