それはまだリオーフェがリオーフェで無かった頃のお話。

 まだ戦争という言葉も実感と言うにはほど遠い、自分たちの外の世界がやっていることのようにしか思っていなかった。小さな国で育ったリオーフェの国は今だ戦争に巻き込まれたことがなかったのだ。
 誰も死なない。誰もいなくならないのが当たり前だと思っていた。そう、彼女はあまりにも幼すぎたのだ。世界を知るにも、人間を良く知るのにも……

「クロォーン」
 ピンク色のヒラヒラなドレスを靡かせリオーフェは前方を歩いていたクロエルに抱きついた。いきなり抱きついたせいかクロエルは驚いたようにビクリと体を震わせる。そんな様子も面白いと言わんばかりにリオーフェはふふふっと笑った。アメジストの瞳が細められ、ふんわりとした笑みが広がる。白い肌は走ってきたせいか微かに赤らみ林檎のように真っ赤に染まっていた。そんなおてんば姫君に抱きつかれたクロエルは叱る様に頬をつついた。
「姫さま……そういう風にいきなり抱きつくのは止して下さい」
「どぉしてぇぇぇ?」
「どうしてもです。それに僕は一般兵で姫さまはこの国の姫君です」
 これ以上の理由がありますか。そう言いきるクロエルに些かリオーフェは不服そうだ。ムッとした様子で見上げる姫君の頭を数回撫でてあげれば機嫌を損ねたようにぷいっと顔を逸らされた。どうやら子ども扱いされたのが気に入らなかったらしい。
 自分も十分子どもなのに何故自分ばかり子ども扱いするのだと言いたいのだろう。そんな彼女にクロエルは優しい笑みを浮かべると静かに呟いた。
「……いつか姫さまにもいずれわかるときが来るのでしょうね」
「?」
 不思議そうに見上げるリオーフェ。だが、クロエルは優しげに笑うだけでそれ以上多くは語らなかった。それは彼なりの優しさでもあったのかも知れない。もうすぐ戦争が起きると彼にはわかっていたのだ。でも、それを悟らせないように静かに頭を撫で続けてくれた。
 いつまでも平和な世界でありますように。と、祈るかのように。だが、運命は皮肉にも予期していた時期よりも二ヶ月も早く戦争が起こってしまった。準備不足だった我が国は一瞬で滅ぼされ、目の前で両親や兄弟が殺された。優しい兄たちだった。リオーフェの遊び相手を良くやってくれたし、心の広い、優しい兄だった。
 だがもう居ない。誰もいないのだ。目の前で血まみれになって倒れていった。まるで動かなくなった人形のように地面に体を横たえていた。真っ白な肌が冷たいコンクリートに当たり、無惨な姿が目の前いっぱいに広がる。まだ幼かったリオーフェにはこれを理解できる力がなかった。ただ、大好きだった両親が動かなくなってしまったと言うことだけだ。
 それも自分を守って死んでいったのだから。
 眼窩に広がる光景はお世辞にも綺麗と呼べる物ではなかった。幾つにも重なる死体の数々。
 バタバタと響き渡る無数の足音。
 何も聞きたくなくて耳を塞ぐが、その音は聞こえなくなることはなく寧ろ大きくなっていく。震える体を支えるように立ち尽くすリオーフェ。
 
それは悪夢だった。そう、地獄という名の悪夢だ。

「――っ!」
 声にならない悲鳴を上げながらリオーフェは起きあがった。いつも取り繕っている無表情は恐怖のせいか引きつっている。荒い呼吸が何度も繰り返される。じっとりとした汗が頬を伝った。
 嫌な、実に嫌な夢を見た。

 アレハ悪夢ダ。アレハ地獄ダ。

 何度忘れ去ろうとしてもまるで忘れさせないように甦る光景にリオーフェは耳を塞いだ。塞いでも響いてくる足音に恐怖のあまり瞼をきつく閉ざす。怖かった。思い出すのも嫌だった。
 響いてくるのは足音だけではない。想像もできないほどの断末魔だって思い出せる。恐怖のあまり足がすくむ。ふいに頭を突き刺すような痛みを感じリオーフェは唸った。そういえばあの雨蛙……もとい、カミューラ・ケニストンに容赦なく頭を投打されたのだ。痛いなんてもんじゃない。危うく昇天するところだったと内心リオーフェは思った。幸いそんなに傷は深くなかったのか包帯が巻かれているだけのようである。
 ふいにリオーフェは気づいたように辺りを見渡した。真っ白な天井がやけに広く見える。
 ――ここはどこだろうか?
 そんな疑問が頭を過ぎる。まるで自分の家のような作りの家に内心驚きを隠せないリオーフェ。ここにも魔女か何か住んでいるのだろうか?いや、その前に誰が自分をここまで運んで傷の手当をしてくれたのだろうか。そんな疑問に駆り立てられる中、部屋のドアが静かに開いた。
 古びた木製のドアが年期の入った音を立てて動く。そこに立っていたのは一人の老人だった。

悪夢は常に側にいるものだ。


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