強敵のレオンを軽々と蹴散らしたリオーフェは随分とご機嫌な様子で城の中に入った。一通りダンスが終わったのか、今はクラシックが流れている。今頃レオンは満天の夜空の中、待ちかまえていた貴婦人たちの熱い愛語らいでも受けているに違いない。追いかけてこられない相手にほくそ笑むと、リオーフェは再び歩き出す。高いヒールがコツコツと音を響かせた。
自分と会ったことがある人物だったため、身構えていたが彼は何も覚えていなかった。自分のことも、彼らが自分たちに何をしでかしたのかもすら。
――どうやらそんなに心配する相手でも無かったようだ。一足先に帰りの馬車に乗り込もうと軽い足取りで外にでたリオーフェ。ふいに腕を引っ張られ、前につんめる様に体を傾ける。バランスの取りにくいドレスではこの状況から体を立て直すのは無理で、重力の傾くまま前方に体を倒した。
気づいたときには誰かに抱きしめられるような状況にいた。まだパーティーは続いているせいか外にはひっそりとした静寂が広がり誰もいない。どうやら誰かに見られる心配はないようだ。相手を睨み付けるように視線を上げればリオーフェはハッとしたように息をのむ。アメジストの瞳が大きく見開かれた。
動揺してはいけない。この焦りを悟られたら自分が知っている人物だとばれてしまう。焦りからのせいか声がでない。一人で慌てふためいているリオーフェに相手は無表情のまま見つめると静かに瞳を細めた。
「生きていらっしゃったのですね……」
低い声が響き渡る。その声は歓喜に震えていた。
リオーフェは視線を逸らすと平然を装い何とか声をだす。
「何の事かしら?」
「惚けないで下さい。私です、護衛兵のクロエル・フェインです」
お忘れですか、姫さま!悲痛な声音にリオーフェの肩が微かに震える。まさか自分の様な者を知っているとは思いもしなかった。まさか、彼がこんな所で生きていてくれたなんて。でも、自分は死んだ身なのだ。今更そんなことを言われても困るというものである。
名も、名誉も、地位もすべてを捨ててここまで生きてきたリオーフェにとって彼の存在はあまりにも重たかった。重たすぎた。今の自分はリオーフェなのだ。リオーフェとして生きなければならないのだから。
ゆっくりと視線を上げるとリオーフェは何とか取り繕った無表情で呟いた。
「私は貴方など知りません。気のせいではありませんか?」
王国に仕える兵士に私の知り合いはいません。
(少なくともリオーフェという名においての話だが)
キッパリと言い切るリオーフェにも関わらずクロエルは諦めた素振りも見せず詰め寄る。その表情は真剣そのものだった。昔と何一つ変わらないその正義感に満ちた性格にリオーフェは眉を寄せる。
何故彼は変わらないのだ。時代は虚ろに変わっていくというのに彼だけは何一つ変わらない。自分みたいに時代に取り残されているわけでもない、ただ彼の性格だけは何も変わらないのだ。
それがなんだか酷く可笑しく見えた。自分はあの閉鎖的な空間にいるからこそ未だに変わらずにいられるのに彼は違う。常に変化を求める世界の中にいても何一つ変わらず、昔のように真っ直ぐな瞳で私を見つめてきたのだ。
もしかしたら羨ましかったのかもしれない。
自分が求めている物を既に彼は十分持っているのだから。
思わずいたたまれない気持ちになりリオーフェは身を翻した。もう二度と来るものかと語るかのように歩き出すリオーフェの後をクロエルが追いかけてくる。まるで逃がさないと言わんばかりに手を伸ばし、行く手を遮ろうとした瞬間、空気がゆらりと変化した。
いや、一瞬にして緊張に満ちた空気に変わったのだ。
こんな風にいとも簡単に雰囲気をガラリと変えられる人物をリオーフェは一人しか知らない。恐る恐る視線を上に向ければそこには怒るのでもなく、笑うのでもなく、無表情のエカテリーナが立っていた。無表情のため、感情を読みとれないが、少なくとも喜んでいる様子ではないだろう。
「エカテリーナ様」
戸惑いがちに呟けばエカテリーナの鋭い声が飛び交った。
「もう、リオーフェったら!先に帰っちゃ駄目って言ったでしょ」
「い、いえ……ただ先に馬車の中で待っていようかと思っただけでして……」
「同じ事よ。まったく、そんなに引きこもりじゃ困ったものねぇ」
全然困ってなさそうに呟くエカテリーナに半分呆れたような視線を送る。まるでガラリと変わった空気が嘘のように消沈していた。だが、この人物がこの場の空気を一変したのだ。まるで一瞬で今の状況を理解したかのように階段を緩慢な動作で降りてくるエカテリーナにクロエルは深く頭を下げると一礼をする。そんな姿は兵士そのものだ。昔と何も変わらない。ただその姿が王国で見ることになるとは……
一方のエカテリーナは目の前の人物に興味を示したかのようにジッと見つめていたがふいにふんわりと笑った。その微笑みはどこまでもとろけるほど甘い笑み。だが、その笑みを見た途端リオーフェは全身鳥肌が立った。彼女のこの微笑みは笑っているのではない。怒っているのだ。だが、大概の人は彼女が怒ったことにも気づかずいることが多い。しかしクロエルは気づいたかのように頭を下げると謝罪の声を上げる。どうやら勘の良い彼はエカテリーナが怒っていることに気づいたようだ。
「エカテリーナ様のお連れの方とは知らずにご無礼をお詫び申し上げます」
「あら、そんなことはいいのよ」
私がしっかり側についていなかったのが悪いんだから。と、悪びれた様子もなくあっけらかんと答える。どうやらそんなことで怒っているようではないようだ。ふいにエカテリーナはクロエルだけに聞こえるような小さな声を耳元で囁くとニッコリ笑った。
聞こえはしなかったが、あまり良いことではないだろう。現に少しクロエルの表情が引きつっている。何を言われたかは知らないが、自分には関係ないと割り切ることにした。
そのまま何とかエカテリーナのおかげで無事にその場を乗り切ることが出来たが、本当に危なかったと自分自身でも重々承知している。これからはもっと気をつけなければならないとリオーフェは心を新たにしたのであった。
さようなら、愛しき人よ
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